フランク・エドワード・コールは、1925年10月28日にシカゴで生まれ、シカゴの郊外で育ちました。両親は形式的に教会に出席していましたが、13才の時、彼はバプテスト教会のボーイズ・キャンプに参加し、そこでお兄さんのレイと同時にイエス・キリストを救い主として信じ、同教会に出席するようになりました。フランクは野球と美術が得意で、そのどちらかをキャリアとして追求しようと思いましたが、その道は塞がれ、宣教師になるよう神に導かれ、聖書を学ぶことにしました。母教会の牧師は隣町のホイートン大学に行くよう進めましたが、高校の成績がこの大学の基準に満たないため、足を引きずっていました。しかし、牧師が毎週のように「ホイートンに連絡したか。」と問いつめるので、ついに新学年が始まる前日に願書を出してみたところ、即座に入学が許可され、翌日から勉強を始めました。
大学一年を終えようとしていたころ、徴兵された彼は、1944年の春に洗礼を受け、その後海軍に入いりました。士官訓練のためミズーリ州立大学に送られた時、無神論者の教授から信仰を強く批判された経験をとおしてフランクはキリスト教が真理であることを再確認でき、26ヶ月後にホイートン大学に戻りました。そのころマッカーサー元帥が西洋の教会に、日本の霊的回復を図るため1万人の宣教師を送るよう呼びかけていましたが、フランクはその呼びかけに心が動かされ、日本に行く決心をしました。その直後、考古学の授業で知り合ったエバリンと食堂の列で一緒になり、卒業後の予定について聞いたところ、彼女も日本に向かっていることを知ったので、彼女と付き合い始め、数カ月後に婚約しました。そしてフランクはフラー神学校での1年間の学びを終えた時、1950年の6月にエバリンと結婚し、2人でコロンビア・バイブル・カレッジ大学院へと向かったのです。
神学校を終えた2人は、保守バプテスト宣教団に受け入れられ、日本へ出発し、1952年の11月30日に東京に入港しました。東京で2年間の日本語の勉強を終え、5月に宮城県石巻市に移り、翌週から集会を始めました。そして翌年1956年12月に息子テモテが生まれました。石巻での伝道は、バージニア・ボーエン師とロレーン・フライシュマン師と協力しながらでしたが、同時にフランクは仙台で「聖書図書刊行会」をも立ち上げようとしていたため、コール家は仙台と石巻に二俣をかけながら暮らしていました。このころから、エバリンは色々な健康の問題を患い2~3年ごとに手術が必要となりました。
東京の日本語学校時代から、フランクは「東京神学塾」で教え始めていました。当神学塾閉鎖後、1958年に設立した「日本聖書神学舎」(現在の聖書宣教会)で特別講義をし
ていましたが、1963年に正式に教師としての依頼を受け、1964年に関東に転居しました。まずは軽井沢で日本語の勉強をもう1年し、次に入間聖書バプテスト教会での開拓伝道を1年間手伝いながら、横浜市港北区の中山町で開拓伝道を始める準備をしました。1966年の春に土地を購入し、9月の引っ越しまで建物の建築にかかり、11月13日に最初の集会をもちました。開拓伝道と同時に神学舎や共立女子聖書学院では、フランクは弁証論、教会論、などを教え、エバリンはキリスト教教育やクリスチャン・ホームを教えました。途中1971年から松見が丘キリスト教会の開拓にも協力し、1977年の10月から鴨居聖書教会の開拓が始まりましたが、この地域での働きを1994年のエバリンの召天まで続きました。
1980年に息子テモテがケイテイと結婚し、5人の孫(リーバイ、サイラス、エマ、アモス、キャロライン)が与えられました。5人目の孫が1才になった直後1993年9月にエバリンが骨髄腫で入院し、翌年の10月16日に米国ミシガン州で天に召されまし
た。フランクは軽井沢に転居し、もう3年間神学舎で教えた後、オレゴン州マクミンビルに移り退職しました。退職後は米国各地にいる知り合いを尋ねに長距離のドライブをすることが好きでしたが、記憶がどんどん衰えていくなか、行き着いたお家の人たちが誰なのかを忘れることもありました。しかし、相変わらずジョークを語る能力は衰えず、住んでいた施設でも、医院でも、どこでも人々を笑わすことで知られていました。2006年の秋にフランクは中山での伝道開始40周年記念のために日本への最後の旅行をし、中山での記念礼拝に参加できました。その時石巻にも訪れ、最後のお別れを告げました。2009年には、米国での最後の長いドライブをし、ロサンジェルスで息子夫婦、孫たち、ひ孫たちとサンクスギビングと過ごしました。その後、アルツハイマーが悪化し続け、2015年2月中旬の高熱のため、食欲と話す能力を失い、3月4日に安らかに主のみもとに迎えられました。それまでに記憶を全て亡くしていた彼は最後まで妻エバリンと息子テモテの名前を忘れることはありませんでした。年は89才でした。
フランク・コールは人々からどのように覚えられるのでしょうか。彼は冒険やチャレンジを含む野外でのキャンプ、ハイキング、釣り、猟などが大好きでした。ユーモアにも富み、神学校の授業でも、教会の説教でもジョークを用いて人々の興味を引き、明るい雰囲気をつくりました。彼は優れた教師で、講義の内容を分かりやすく整理し、論理的に語りました。難しい問題に関してはあらゆる視点を公平に、かつ客観的に紹介し、受講者たち が自分で良く考えるよう刺激しました。彼がかかわった4つの教会の方々は彼の暖かな牧師としての配慮、冷静な判断、そして大好物のアイスクリームを思い出すでしょう。しかし、何よりも彼は神の前で自分が任された使命を誠実に、そして謙虚に、神に頼りながら果たした「忠実なしもべ」として覚えられることでしょう。彼の一生のモットは中国への宣教師 C.T.スタッドが書いた詩のテーマで、「たった一つの生涯、それはあっと言う間に過ぎ行く。キリストのためになされたことだけが残る」と言うことばでした。彼の生涯の全ての実績は神が彼を通してなさったこと、その栄光は全て神に返します。
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